2023.1.20 広島文化学園HBGホールバルトーク
歌劇「青ひげ公の城」作品11/Sz.48
下野竜也(指揮)/宮本益光(青ひげ)/石橋栄美(ユディット)/山岸玲音(語り)
バルトーク「青ひげ公の城」は、スカラ座で一度観たことがあるだけで、私にとって決して身近な作品ではなかった。ただ合唱も指導する私にとって、ハンガリー語はとりあえず口に出して読めはするが、そんなものネイティブからしたら「それで発音できているだと? 笑わせんじゃないぜ」レベルの話であろう。事実、今回の挑戦でも、最後まで発音は直されまくったし、ハッキリ言って本当に正しかったのか確証が持てない部分も残る(問題発言!)。いや、もちろん私はプロですからね、作品と与えられた環境に最大限のリスペクトを持って準備しましたよ。しかしいつも以上に終わりが見えなかった。
思い返してみると、初めてイタリア歌曲を勉強したとき、意味は二の次だった(再び問題発言!)。まずはいい声を出すこと、正しく発音出来ることを目指していたように思う。それは大学生になっても大きく進歩することはなかったかもしれない。だって私は大学院生のときもイタリア語やドイツ語で会話できなかったのだから。
ただ高校生のときと異なるのは「意味で歌わなくてはならない」との考えは持っていたこと。うむ、持ってはいたが「意味で歌う」とは、頭の中で日本語訳を思い出すことだった。
今でも優れた対訳は参考にするし、思考の中心に日本語はあるが、プロフェッショナルとして、まるで擬態語、擬音語を発するが如く、その歌詞の発語の在り方を信じ、そこに命を託したいと願っている。
そこで気がついたことなのだが、私のように家庭環境が複数言語でない場合「思考は母国語によって磨かれる」ということだ。
かつて私の教え子が「ムカつく!」と発するのを聞いたとき「自分の大切な感情を、そんな言葉一つで片付けるのはやめなさい。君の心のモヤモヤが最も当てはまる言葉を探してごらん。そうやって自分に問いかけることで、君の心は無限に広がっていくよ」と諭した…らしい。私自身はそれを覚えていないのだが、教師になったその生徒は、それを大切な教えとして胸に刻んでくれているとのこと(有難い)。
話が飛んでしまったが、心は言葉に託され、言葉は心を育むものなのだ。
作詞家は心の動きを言葉に託し、作曲家はその言葉に心動かされ歌を創る。ここで言う言葉は、音にして発することができるわけだし、事実、その音からメロディーが生まれるのだ。
私たち声楽家が求めるべきは、それら心の動きを読み解き、肉薄し、その意思に寄り添った言葉を、最も相応しい発語を持って音楽的に造形することではなかろうか。
だとすると母国語以外で歌うことがいかに困難なことかわかるだろう。極端な例になるかもしれないが、私たち日本人は何かにぶつかったとき「イテッ」とは言っても、AhiやAchとは言わないのだ。
そこでバルトーク「青ひげ公の城」に戻るのだが、オペラ歌手として初めて舞台で発する原語にかつての自分を見出し、そして今の自分を省みることになった。今でもハンガリー語が出来ない私だが、言葉とどう向いあうべきか、再考する良い機会(苦しくも)となった。
私は母語としてハンガリー語を話すことはできないが、その音がその意味であり、その意味はその音でありたいと願いつつ稽古を重ねた。頭の中で流れる日本語同時通訳が消え去るまで稽古を重ねた。
おそらく、ハンガリー人が聴いたら「あの発音は違うよ」と言われることもあるだろう。しかしステージ上の私に嘘はなかった。意味で歌った(発語した)という自負がある。
例えば多少発音が怪しくとも、気持ちのこもった日本語で話す外国人が存在する。グルベローヴァの歌う「さくら」は決して正しい発音とは言えないし、ヘフリガーの歌う山田耕筰だって同様だ。しかしそこには音楽としての真実がある。
この例は「発音なんて多少間違ってもいい」ということではないし、「発音より意味を宿すことのほうが大事」という話ではない。発音の正しいことが、すなわち素晴らしい歌とは限らないのだから。
その発語に意味を託す行為が感情と直結していること、そしてその音楽作品のあり方を真摯に探求した結果が聴こえることに、意味で歌うという姿が浮かび上がるのではなかろうか。
それにしてもマエストロ・下野竜也のタクト。バルトークの音楽が一振り一振りに躍動し、言葉を越えた音楽の強さ、豊かさに溢れていた。オーケストラの咆哮も、緻密な静けさも、譜面から再現されているのではなく、今そこで生まれ出たかのような瑞々しさがあった。
そんなことを味わえただけでも、音楽家としての本懐ここに極まれり。感謝ばかり。